少し明るくなった日本;全米女子オープンで日本人二人がプレーオフに!!

全米女子オープンで笹生優花選手が優勝した。マスターズの松山選手に次ぐ喜ばしいニュースだ。ただし、米国LPGAの公式ウエブサイトではフィリピンで登録されていたし、東京オリンピックもフィリピン代表で出場するという。日本国代表二人はまだ決定していないが、強敵だ。オリンピックでの、再度の笹生・畑岡対決が楽しみだ。笹生選手は日本とフィリピンの懸け橋になってくれるだろう。

日本人二人によるプレーオフをぜひ生で見たかったが、残念なことに、地上波では放送されていなかった(我が家ではBSを見ることができないがBSでも放送していなかったようだ)。畑岡選手もよく追い上げたが、もう一歩であった。二人の健闘を心から称えたい。オリンピックの意義は、日本選手の活躍が日本を励ますことにつながるであろうことを、今回の二人の活躍で再認識させられた。

何年も前からオリンピック開催が決まっていたことだし、今頃、何のためにオリンピックを開催するかを問う前に、どうすれば「安全・安心」を実現可能にするのかを考えるのが分科会の責任だったと思う。もちろん、失敗して大きな第5波が襲えば責任問題となる。

オリンピックでは必ずシミュレーションしておかなければならない事態が、米国の男子ゴルフトーナメントで起こった。3日目まで後続に6打差をつけてトップに立っていたジョン・ラーム選手(スペイン)を、2日目終了後の検体でコロナ陽性になったとの理由で、最終日に出場させなかった。ラーム選手は「これも人生であり得ることのひとつ。挫折に対してどう対応するかが、人間性を問われる瞬間でもある」とコメントしたそうだ。なかなかの人格者的なコメントだ。

ラーム選手は5月31日に濃厚接触者と認定されて、無症状だが場内での施設利用を制限しつつ、毎日検査を受けることで大会に出場していたようだ。棄権した(させられた)時点でも無症状であったとのことだが、医学的には正しい措置だと思う。運命には逆らえないが、過酷な試練で済ますには厳しい。

予選はトップ通過でも決勝の直前に陽性が判明すれば・・・・・・はオリンピックでも想定されるケースである。ラーム選手がこの非情な出来事を克服して、活躍することを願っている。

 

PS:野党が内閣不信任案を出せば、ただちに解散すると、自民党の幹事長がコメントする。いつから憲法は「自民党の幹事長に衆議院を解散する権限を与えた」のか?おかしな国、不思議の国だ。

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花咲く日が遠い遠い日本-47;皇国の興廃この一戦にあり

体操の内村航平選手がオリンピック体操・鉄棒の出場権を獲得した。少々微妙な最後だったので、本人も完全に納得できた出場権獲得ではないと語っていたが、これまでのリジェンドとしての実績や体操界・日本のアスリートの精神的支柱として頑張って欲しいと願っている。池江璃花子選手も頑張っている。われわれは、少なくとも私は、感染を抑え込む対策が実行可能であれば、オリンピックという場で内村選手や池江選手の姿を見たいと願っている。 

しかし、コロナ感染の現状を客観的に眺めれば、6月20日に緊急事態宣言が終わっても、オリンピックの開催によって再拡大するリスクを憂慮せざるを得ない。インド株の拡大は、これまで感染を抑え込んでいた国でも脅威となっている。当然ながら、「安全安心」をお経のように繰り返すだけで、具体策も見えない、失敗しても責任を取る気配もない国や都のトップに対して不安がいっぱいなのだ。

「勝負の3週間」「短期間の集中的な対策」との言葉が見事なまでに空振りしても、誰も全く責任を取ろうとしない。そして、総理の横に立って政府の施策を説明していた人物が、今頃になって、見事なまでに反旗を翻したドタバタ感満載の政治状況である。「辞職」につながった不祥事を繰り返しても説明責任も果たさない政治家たち、国民の自粛に依存したコロナ対策の失敗やPCR検査をしなかった事実に頬かむり専門家たちなど、立派な大人たちが責任を取ることもなく、自粛しない若者を非難していて済むことではない。

どうしてもオリンピックを開催するなら、国のトップが「安全安心が実現できなかった時に責任を取る」覚悟を示すことが必要でないのか?覚悟が見えない人に(あるのかもしれないが、表情や言葉からは全く伝わってこない)、どうして、国の命運を託すことができるのだろうか?

もちろん、オリンピックの開催には、これから1か月、国を挙げてワクチン接種を死に物狂いで進めていく体制の確立が超急務だ。打ち手が不足しているというなら、医師免許を持っている研究者を現場に引っ張り出せばいい。法的に何の問題もないはずだ。コロナウイルスという敵と戦争をしている時に、研究など後回しでもいい。コロナに敗れれば、国の信用がなくなれば、日本の未来はない。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」だ。

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花咲く日が遠い遠い日本-46;分科会は責任を取る覚悟がないのか?

1年少し前、政府はオリンピックを1年間延期すると決定した。私はオリンピックに意義がないとは思わない。平和の祭典と呼ぶに値するきれいごとの世界とは思わないが、アマチュアのアスリートにとっては大きな人生の目標である。まして、母国で開催するオリンピックを迎えるのは意義深いことだ。私は、1964年の小学校6年生の時に、東京オリンピックで東洋の魔女が勝利する姿を、教室のテレビで見たことを記憶している。日本が金メダルと取った瞬間、感動で目頭が熱くなったことを覚えている。日露戦争で日本が勝ったかのように勇気づけられ、日本人としての誇りを感じた。

今回の分科会長の発言は、オリンピックを励みに頑張ってきたアスリートの気持ちを傷つけるものだ。彼らは日の丸を誇りに頑張ってきたのだ。国民の多くは過去のオリンピックで日の丸が掲げられた場面に勇気づけられた思い出があるはずだ。多くがオリンピックの意義はわかっている。ただ、コロナ感染が収まらない中でオリンピックを迎えることに不安を覚えているのだ。否定的なのはオリンピックそのものの意義ではなく、この状況下で開催されることに対してだ。 

常識的に考えて、分科会の責任の一つに「無事にオリンピックを迎えるために、どんな対策を取るのか」があったはずだ。今頃、責任を政府に押し付けるのではなく、オリンピックを開催するために何が必要なのかを提言し、それを政府が聞き入れないのであれば、辞表を胸に体を張ってでも提言すべきことを提言するべきだったのではないのか?「感染症対策の専門家」として、オリンピックという目標に対して、感染対策の強化を求めるべきではなかったのか?PCR不必要論は彼らが決めたことなので、方針を変えられなかったのだろうが、それは自業自得だ。現状を客観的に見れば、オリンピックを開催することによって、国内、国外にコロナ感染が広がり、日本という国の誇りが傷つけられるリスクは非常に高い。しかし、こんな日本にした責任は彼らにはないのか?

分科会の責任は、オリンピックの意義を問うことではない。政府と分科会には共同責任があるのだから、ここに至っても政府がオリンピックを開催すると決めたなら、どのようにして感染拡大を最低限にするのか、もしもの時に、何をすべきなのかを提言すべきなのだ。責任を取る覚悟がなく、これまで対策を提言してきたのか?他人事ではなく、自らどのように感染を封じ込めるのかを提言し、それでうまくいかなかったら、責任を取る覚悟を持って欲しいものだ。

 

PS: C36株が見つかったという。日本のニュースを見ても何のことかわからなかった。そこで、ネットを調べたところ(SARS-CoV-2 variants of concern as of 3 June 2021 (europa.eu))、スパイクタンパク質に、インド株=デルタ株の特徴の一つであるL452Rに加え、D614GとQ677Hが存在するものが、C36+L452Rとリストアップされていた。D614Gはイギリス株(アルファ株)、南アフリカ株(ベータ株)、ブラジル株(ガンマ株)、インド株(デルタ株)にも共通である。Q677HはC36に特異的で、スパイクタンパク質の677番目にあるグルタミン(Q)がヒスチジン(H)に変わっていることを意味する。2020年12月にエジプトで初めて見つかっている。イギリス株は2020年9月に報告され、インド株は2020年12月だ。

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花咲く日が遠い遠い日本-45;感染症ムラには国際的基準のコロナ対策を実施する「義務」はなかったのか?

分科会の尾身茂氏が「オリンピックの開催は普通はない」、「そもそも五輪をこういう状況の中で何のためにやるのか、目的が明確ではない」、「できるだけ規模を小さくして、管理体制を強化するのが大会を主催する人の義務だ」と発言したことが、まるで正義の味方のような話題となっている。

しかし、私はこの発言を聞いて、強い違和感と怒りを覚えた。「そもそも、無症状感染者を野放しにする対策を継続してきた理由は何なのか?」「ワクチンの接種をもっと強く主張してこなかったのは誰なのか?」「もっと強い措置を提言してこなかったのは誰なのか?」沖縄では保育園でクラスターが発生しているが、「イギリス株(コロナα株)が子供でもかかりやすいとわかってから、それに対する十分な対策を講じてきたのか?」これまでの自らの非科学的コロナ対策を反省もせずに、今頃、オリンピックを開催する理由はどこにあるのかと問うのは信じがたい。自らの責任放棄に等しい言葉だと思う。

昨年、オリンピックを延期すると決めた後、「オリンピックを開催するために、どのような感染症対策を実行すべきなのか」を考えるのが、分科会の責任・義務ではなかったのか?「オリンピックを、コロナ感染を乗り越えた証として開催するための感染症対策を提言する義務は誰に担わされていたのか?」。そして、イギリス株やインド株(アルファ株やデルタ株)の水際対策は十分だったのか?昨日は、まるで他人事のように、何のために開催するのかと問い、そして、開催する場合、感染拡大を防ぐ義務を国、都、組織委員会に押し付ける。あの発言はあらかじめ、自分たちの責任回避をするためにしたのではないのかと思う。手に負えなくなってしまった状況を生み出したことを忘れ、オリンピックを強行しようとしている人たちに責任を丸投げすることが正当化されるのだろうか?

「検査と隔離」という国際的基準を逸脱してきた理由を説明する義務を果たしたうえで、オリンピックを開催する人たちの義務に言及して欲しいものだ。

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花咲く日が遠い遠い日本-44

高齢者のワクチン接種を2回 終わった割合が、1.3%になった。1回でも打ち終わった人の割合は16.2%だ。医療従事者では2回の接種を終えた人は約3分の2になった。そして、1日の接種回数は50万回となった。大手メディアはワクチン接種が進んでいると伝えるが、この数字で7月末までに高齢者の接種が終わると計算できるのか?ウイルスは怖いが、このメディアの姿勢の方がこの国にとっては怖いことではないかと思う。

企業でも20日ごろから接種を開始するというが、まずは、この医療資源を高齢者の接種に利用できないものか?

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花咲く日が遠い遠い日本-43;母の命日22年目+壊れつつある日本社会

WHOが国名がつくと悪いイメージを与えるので、変異株の名称を、地名と関係のないものに変えたそうだ。イギリス株はCovid-alpha(α)、南アフリカ株はCovid-beta (β)、ブラジル株はCovid-gamma(γ)、インド株はCovid-delta(δ)と決めたと報道されていた。アルファを中国株から始めるべきだと思うのだが、これも国際政治の一環か? 

そして、オリンピック・パラリンピックは毎日PCR検査をして安全・安心な環境を確保すると言う。もともと「検査と隔離」が国際的な標準であったが、それを無視して日本モデルを頑なまでに継続してきた日本だが、まずは、これまでの対策が間違っていたことを認めるのが筋ではないのか?検査をして感染者を見つけるのが安全・安心につながると言うなら、なぜ、それを自国民に対して、してこなかったのだ。

鳥インフルエンザなどでは、感染した鶏が確認された時点で、養鶏場の鶏がすべて殺処分を受ける。感染拡大を抑えるために、それが必要だからだ。今回の新型コロナウイルス感染症は、無症状感染者がいて、その人たちが持続的に感染を広げていたのは周知の事実だ。この部分に手を打たず、自粛に依存したのが間違いではなかったのか?

「病床が逼迫して医療崩壊が起こる」「PCR検査は偽陰性がある」などの非科学的な理由で、PCR検査を抑え込んできた。ウイルス量が少ない陰性であれば、感染を拡大を広げるリスクは少ないであろうし、多くなれば偽陰性率は低くなる。これまで否定してきた「WHOの検査・検査・検査」の方針を、オリンピックに対しては肯定するのか?何の納得できる説明もせずに、緊急事態宣言を延長・再延長し、オリンピックも「安全・安心」を繰り返すだけ。これを政治と呼ぶなら、日本は無法地帯に等しい。

 

もう、コロナの話は精神的に悪いので、母の命日の話をしよう。

母は1998年に進行大腸がんと診断され、翌年6月1日に旅立っていった。今であれば、もう少し治療の選択があったと思うが、それも運命だ。以前にも触れたが、がん患者とその息子という立場、母子の会話を通して、20世紀の私と21世紀の私は、研究に対する姿勢や人生観において別人格といっていいほど変わってしまったと思う(他人はどう思っているか知るすべはないが)。 

40代までの私の人生にとって目標であったもの、価値のあったものが、虚しいものとして映るようになってしまった。母の死を通して、緒方洪庵ではないが、「医療・医学は自分のためのものではなく、患者さんのためにあるべきだ」と、確固たる信念になってしまった。

パーフォーマンスとして口先だけで「患者のため」と言っている人たちにとっては、私の頑迷さは迷惑かもしれない。会合などでも、なれ合い主義の参加者にとっては、私の頑なさは鬱陶しいだろう。頑固老人の戯言と考えている人も多いと思う。しかし、今の日本のように精神的支柱もなく、信念もない社会においては、曲げてはならないこと、たとえば、「最後まで患者さんの心に寄り添う医療であること」を嫌われても言い続けるのが、私の使命・天命ではないかと思っている。

母の死後、6月1日は、1年を振り返り、自分のあるべき道を問い直す日でもある。歳月を経るたびに、私の信念と現実との乖離が大きくなるような気がする。母の命日をブログで綴るのも今回が最後となるが、コロナ感染症流行が、医療のあるべき姿を見つめなおす機会になって欲しいと願いたい。

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