花咲く日が遠い遠い日本-45;感染症ムラには国際的基準のコロナ対策を実施する「義務」はなかったのか?

分科会の尾身茂氏が「オリンピックの開催は普通はない」、「そもそも五輪をこういう状況の中で何のためにやるのか、目的が明確ではない」、「できるだけ規模を小さくして、管理体制を強化するのが大会を主催する人の義務だ」と発言したことが、まるで正義の味方のような話題となっている。

しかし、私はこの発言を聞いて、強い違和感と怒りを覚えた。「そもそも、無症状感染者を野放しにする対策を継続してきた理由は何なのか?」「ワクチンの接種をもっと強く主張してこなかったのは誰なのか?」「もっと強い措置を提言してこなかったのは誰なのか?」沖縄では保育園でクラスターが発生しているが、「イギリス株(コロナα株)が子供でもかかりやすいとわかってから、それに対する十分な対策を講じてきたのか?」これまでの自らの非科学的コロナ対策を反省もせずに、今頃、オリンピックを開催する理由はどこにあるのかと問うのは信じがたい。自らの責任放棄に等しい言葉だと思う。

昨年、オリンピックを延期すると決めた後、「オリンピックを開催するために、どのような感染症対策を実行すべきなのか」を考えるのが、分科会の責任・義務ではなかったのか?「オリンピックを、コロナ感染を乗り越えた証として開催するための感染症対策を提言する義務は誰に担わされていたのか?」。そして、イギリス株やインド株(アルファ株やデルタ株)の水際対策は十分だったのか?昨日は、まるで他人事のように、何のために開催するのかと問い、そして、開催する場合、感染拡大を防ぐ義務を国、都、組織委員会に押し付ける。あの発言はあらかじめ、自分たちの責任回避をするためにしたのではないのかと思う。手に負えなくなってしまった状況を生み出したことを忘れ、オリンピックを強行しようとしている人たちに責任を丸投げすることが正当化されるのだろうか?

「検査と隔離」という国際的基準を逸脱してきた理由を説明する義務を果たしたうえで、オリンピックを開催する人たちの義務に言及して欲しいものだ。

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花咲く日が遠い遠い日本-44

高齢者のワクチン接種を2回 終わった割合が、1.3%になった。1回でも打ち終わった人の割合は16.2%だ。医療従事者では2回の接種を終えた人は約3分の2になった。そして、1日の接種回数は50万回となった。大手メディアはワクチン接種が進んでいると伝えるが、この数字で7月末までに高齢者の接種が終わると計算できるのか?ウイルスは怖いが、このメディアの姿勢の方がこの国にとっては怖いことではないかと思う。

企業でも20日ごろから接種を開始するというが、まずは、この医療資源を高齢者の接種に利用できないものか?

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花咲く日が遠い遠い日本-43;母の命日22年目+壊れつつある日本社会

WHOが国名がつくと悪いイメージを与えるので、変異株の名称を、地名と関係のないものに変えたそうだ。イギリス株はCovid-alpha(α)、南アフリカ株はCovid-beta (β)、ブラジル株はCovid-gamma(γ)、インド株はCovid-delta(δ)と決めたと報道されていた。アルファを中国株から始めるべきだと思うのだが、これも国際政治の一環か? 

そして、オリンピック・パラリンピックは毎日PCR検査をして安全・安心な環境を確保すると言う。もともと「検査と隔離」が国際的な標準であったが、それを無視して日本モデルを頑なまでに継続してきた日本だが、まずは、これまでの対策が間違っていたことを認めるのが筋ではないのか?検査をして感染者を見つけるのが安全・安心につながると言うなら、なぜ、それを自国民に対して、してこなかったのだ。

鳥インフルエンザなどでは、感染した鶏が確認された時点で、養鶏場の鶏がすべて殺処分を受ける。感染拡大を抑えるために、それが必要だからだ。今回の新型コロナウイルス感染症は、無症状感染者がいて、その人たちが持続的に感染を広げていたのは周知の事実だ。この部分に手を打たず、自粛に依存したのが間違いではなかったのか?

「病床が逼迫して医療崩壊が起こる」「PCR検査は偽陰性がある」などの非科学的な理由で、PCR検査を抑え込んできた。ウイルス量が少ない陰性であれば、感染を拡大を広げるリスクは少ないであろうし、多くなれば偽陰性率は低くなる。これまで否定してきた「WHOの検査・検査・検査」の方針を、オリンピックに対しては肯定するのか?何の納得できる説明もせずに、緊急事態宣言を延長・再延長し、オリンピックも「安全・安心」を繰り返すだけ。これを政治と呼ぶなら、日本は無法地帯に等しい。

 

もう、コロナの話は精神的に悪いので、母の命日の話をしよう。

母は1998年に進行大腸がんと診断され、翌年6月1日に旅立っていった。今であれば、もう少し治療の選択があったと思うが、それも運命だ。以前にも触れたが、がん患者とその息子という立場、母子の会話を通して、20世紀の私と21世紀の私は、研究に対する姿勢や人生観において別人格といっていいほど変わってしまったと思う(他人はどう思っているか知るすべはないが)。 

40代までの私の人生にとって目標であったもの、価値のあったものが、虚しいものとして映るようになってしまった。母の死を通して、緒方洪庵ではないが、「医療・医学は自分のためのものではなく、患者さんのためにあるべきだ」と、確固たる信念になってしまった。

パーフォーマンスとして口先だけで「患者のため」と言っている人たちにとっては、私の頑迷さは迷惑かもしれない。会合などでも、なれ合い主義の参加者にとっては、私の頑なさは鬱陶しいだろう。頑固老人の戯言と考えている人も多いと思う。しかし、今の日本のように精神的支柱もなく、信念もない社会においては、曲げてはならないこと、たとえば、「最後まで患者さんの心に寄り添う医療であること」を嫌われても言い続けるのが、私の使命・天命ではないかと思っている。

母の死後、6月1日は、1年を振り返り、自分のあるべき道を問い直す日でもある。歳月を経るたびに、私の信念と現実との乖離が大きくなるような気がする。母の命日をブログで綴るのも今回が最後となるが、コロナ感染症流行が、医療のあるべき姿を見つめなおす機会になって欲しいと願いたい。

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