母の命日に想う敗軍の将の責任

1999年6月1日に母が亡くなり、23年が経過した。この23年間、山あり、谷ありの人生だった。努力しても必ず報われるわけではないが、努力しなければ報われない。そう信じて過ごしてきたが、世の中にはずるがしこく生き抜いてきた奴がたくさんいる。10億円の給付金詐欺などは日本人の劣化の象徴だ。

 

人が育たない、イノベーションが生まれないなど日本の悩みは尽きない。最大の要因は、評価する側に目利きがいないことと評価者を評価をする仕組みのないことだと繰り返し主張してきた。関係者の利権を鎧の下に隠し、見かけだけの公平で公正な評価と糊塗すれば、イノベーションどころかその芽さえ育たなくなる。若者がサイエンスに目を向けなくなったというが、不公平な評価を続けていれば、若者の気持ちは切れる。若手が育たないのは、当然の帰結だ。そして、霞が関からも若い人が逃げ出している。

 

話を戻すと、1999年6月2日に後にミレニアムゲノムプロジェクトにつながる会が通商産業省で予定されていた。その直前の5月30-31日にかけて母を見舞いに市立堺病院に行った。これが最後の見舞いになると思いつつ、麻薬で意識がおぼろな母に語りかけた。6月2日に東京で重要な会議があるとの話をしたが、うつろな母の状態から記憶に残っているとは思っていなかった。

 

しかし、私が東京に戻った夜、母は父に「私が明日亡くなっても、祐輔には2日の会議には出るようにと伝えて」と言い残し、翌朝、旅立った。危篤の報を聞いて大阪に向かったが、死に際には間に合わなかった。亡くなる直前に意識が戻り、お世話になった看護師さんたちにお礼を言っていたと聞いた時には涙が止まらなかった。そして、父は母の遺志を尊重し、1・2日がお通夜、3日に葬儀という異例の日程を私に告げた。また、泣けた。新幹線から涙で曇る富士山を眺めながら東京の会議に参加した日と母の愛の深さを忘れない。私と違って、温厚で怒る姿が記憶にない母だった。手術前の一言やこの出来事が支えとなり、私の心は寒い冬にも折れなかった。

 

ゲノム研究に冬の時代が訪れた日々、何度も研究を辞めようと思った。しかし、この時の母の想いを思い起こせば、辞めることができなかった。そして、23年が過ぎた。世の中には不条理なことがたくさんある。それでも、努力し続ければ報われることを、私の背中を見た若い人が感じ取って頑張って欲しいと、ねじを巻き続けて頑張り続けてきた。明らかなストライクをボールと判定され、明らかなボールをストライクと判定されても、それを跳ね返し、死球を受けても明るく笑って一塁に向かう大谷選手の姿を眩しく感ずる。

 

しかし、私にとってAIホスピタルショックは大きい。屋根に上がっても大丈夫ですと言われて屋根に上がった途端に梯子を外されたような気持ちだ。特に4年間一緒に頑張っていただいた方々に対して申し訳ない気持ちで一杯だ。経年劣化で錆びついた私の心は、心不全状態だ。人は息を吐くように嘘をつく。過去にも学んだことだが、今度は母もこれ以上無理はしなくと言ってくれるだろう。