命の選別

ChicagoMedの続きとコロナ感染下の命の選別について話をしたい。

ドラマでは、大雪によって起こった多重交通事故の場面から始まる。シカゴ市内のインターチェンジ、特に、高速道路から湖岸ドライブに移行する部分では傾斜のきつい急なカーブがあるので、極寒下で雪が降れば超危険だ。

車両火災で全身の95%の火傷を負った患者が運ばれる。何とか治療しようとする研修医に対して、指導医は助かる可能性の高い患者の治療を優先するように指示する。多くの外傷患者が発生した現場では、トリヤージという名の選別が行われる。患者は全身浮腫(やけどをすると腫れあがるが、それが全身で起こるのだ)に見舞われるが、研修医は患者に死が近づいていることを告げる。患者は、一緒でなかった奥さんが到着して「ありがとう」告げるまで生かしてほしいと懇願する。しかし、気管にまで浮腫が及び、呼吸困難になった状態で、医師は気管挿管を勧める。患者は、「それでは、妻に、『ありがとう』が言えない」と拒否する。それに対して、「ありがとうを言う瞬間には、気管チューブを外すから」と応ずる。そして、気管挿管したが、妻の到着を待たず、患者は旅立ってしまう。死後に奥さんが到着した際の、もの悲しい研修医の表情が何とも言えない。

そして、同じ事故で、二人の重傷の子供(いとこ)の患者が運ばれる。二人ともO型Rh(-)型で輸血が必要となった。しかし、稀なRh(-)型なので一人分しか血液はない。交通渋滞ですぐに追加の血液が届く状況にはない。同じ事故でけがをして入院していた一方の母親に「どちらに輸血を望むか?」と聞く医師たち。母親は、姉の子供を見捨てるような選択になることを恐れて返事ができない。結果として、医師団が「助かる可能性のある姉の子供に輸血をする」ことを決断する。その後に運ばれてきた父親に「自分の子供を見捨てたのか」と責められた母親の苦悶が見ていて辛かった。父親にすれば、自分の血がつながっていない、いとこの子供より、自分の子供を優先する気持ちは自然かもしれない。母親は、お姉さんの顔が思い浮かび、選択ができなくて当然だ。結果として、医師の一人が同じ血液型で、彼から輸血を受けて二人とも助かるハッピーエンドなのだが、命の選別を考えさせられる場面だった。

そして、今、コロナ感染症が急激に広がり、テレビを見る限り、すでにいろいろな意味で命の選別が始まっているのだと感ずる。救急やICUのベッドがコロナ患者で埋められていると、病院は脳梗塞や心筋梗塞の患者を受け入れられなくなる。近くの病院で処置を受けることができれば助けられる命が、搬送に時間がかかれば助けられなくなる。テレビではコロナ患者を収容できなくなっている問題についての議論が多いが、すでにコロナ以外の病気の治療に問題が波及している。救急隊から病院に収容される段階で、命が選別されているかもしれない。そして、人工呼吸器や人工心肺装置がすべて使われている段階で、同じ病院内で一人の中等症患者が重症化する場面を思い浮かべてみよう。医師はすでに装着されている人工呼吸器を外すことには抵抗がある。人工呼吸器を外せば、その患者の死のリスクが格段に高まるからだ。その患者が別の疾患で余命いくばくもないことがわかっていても、自分の行為で死の引き金を引きたくないのだ。中等症から重症化した患者は、他の疾患はない。こんな場面がすでに起こっているかもしれないし、これから、起こるかもしれない。

政治家や行政は、そんな姿を思い浮かべることができるのだろうか?感染症の爆発的な広がりと今の対策は、あまりにも乖離している。以前にも述べたが、すぐにウイルスゲノム解析をすべきではないのか。アメリカでは2倍の強さで感染するウイルスが広がっている可能性が示唆されている。経済を元に戻すには、まずは感染症の制御だ。困っている方々にはお金を印刷して配布するしかない。ハイパーインフレのリスクがあっても、それを伝えて日本人に覚悟を求めるしかないと思う。