スパルタ教育とシンクロナイズドスイミング復活

しばらく低迷していたシンクロナイズドスイミングで2つの銅メダルを獲得した。頑張ったのは選手であることは間違いないが、ここに導いたのは、井村雅代コーチであることは明白だ。一時、日本を離れて中国で指導し、中国チームを、北京オリンピックの銅メダル、ロンドンオリンピックのデュエット種目銅メダル、チーム種目銀メダルに導いた。一方、井村氏が去った後の日本は、ロンドンオリンピックではメダルを獲得できなかった。

井村氏の経歴を見ると、大阪の浜寺水練学校に通っていたとある。年齢も近いし、私も通っていたので、どこかですれ違っていたかもしれない。そして、あの大阪弁で発する厳しい指導の言葉には、親近感を覚える。彼女の強烈なスパルタ教育についていけない若い人たちが増えているようだが、ゆとり教育という名の「甘やかし教育」の影響だと思う。オリンピックでメダルを欲しいと願っても、そのためには、自分を追い込み、徹底的に鍛える強い意志を持たなければ、目標に到達できない。「夢見る夢子」さんたちには未来は無いのだ。

最近の日中の若い人たちは、「ゆとり教育」「一人っ子政策」で甘やかされて育ったためか、目標は高いにもかかわらず、楽をしてゴールに到達するルートを模索しているような傾向が垣間見える。「私は、道なき密林であっても、自分で自分の道を切り開くために、自分で可能な限りの努力をして、後は神の審判に委ねるだけの人生だった」と言っても、まったく話がかみ合わない。今の若い世代は、整備された舗装道路を捜し求め、スポーツカーで疾走することに熱心なようだ。私のように要領が悪くて、周りとぶつかってきた人生は、井村コーチのそれに重なるような気がする。

しかし、「努力すれば、何でも叶う」などという絵空事を言うつもりはない。才能が無ければ、早く違う道を探したほうがいいと思う。私は、背後でピアノの鍵盤を叩かれ、これは何の音と尋ねられると、自慢ではないが7分の1の確率で言い当てることができる。「ドレミファソラシ」の7つの音を平等に1回ずつ叩くと、「ド」と言い続けていれば、1回は必ず当たるからだ。1オクターブ違う「ド」の鍵盤を叩かれても、それが1オクターブ違うと理解する事は私の耳には不可能だ。自慢ではないが、かなりの音痴だ。また、図工の時間に、粘土細工で馬を作った時に、「これは豚ですか」と教師から声をかけられた時には、返事に窮した記憶がある。もし、私が音楽家や美術家の道を選んだら、もがき続けるだけに終わった、寂しい人生だったろう。

高い目標に到達するためには、「才能」と「努力」、そして「幸運」が必要だ。シンクロの乾選手がインタビューで「自分たちが得たことのないものを得るためには、自分たちが味わったことのない壁を乗り越えないと、その先はないと思っていました。」と言っていた。才能を開花させ、大きな壁を乗り越えさせるには、立派な指導者が必要だ。厳しくとも、この人ならば信じてついて行けば、一人では乗り越えられない壁を乗り越えさせる指導者が不可欠だ。しかし、そのような指導者は、日本では、ほぼ絶滅危惧種なってしまった。井村コーチは、『練習も大会もけんかと同じや』と語っていたそうだが、私もかつては「学会で言い負かされるような奴は破門だ」と叫んでいた。そんな日が、懐かしい。緊張感無く、だらだらと時間を過ごすような姿勢で、夢がかなえるはずが無いが、甘い教育を受けた人たちにそれを理解させるのは難しい。もちろん、才能がって、最大限の努力をしても、報われないことが多いのが世の中だ。しかし、努力をしなければ、報われる可能性は限りなく小さくなる。私は「あの時に努力していれば、もう少し頑張っていれば」と後悔するような人生は送りたくない。

そして、人を育てるには、まず、自分を律せなければならないが、これも言葉で言うほど簡単ではない。自分に対して甘い人が、部下に厳しさを求めても、うまくいくはずがない。また、熱意を持って指導しても、それが、相手にいじめと受け止められる場合もある。メディアも甘ったれ世代が多いのか、「体罰」イコール「悪」と過剰反応して、心ある指導者を萎縮させている。日本には井村コーチのような信念のある指導者が、各分野で、もっと必要なのだ。しかし、私の1-2世代の人たちを眺めると、自分に甘い人たちが多いように思えてならない。人が人を育てるのだということを肝に銘じて頑張ってもらいたい。

そういえば、私の部下にも「雅代」という名の、気風のいい、真っ正直な、患者思いの素晴らしい医師がいた。彼女が井村コーチのような指導者になることを願ってやまない。

f:id:ynakamurachicago:20160821062424j:plain