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ニューヨークタイムズ「免疫療法特集」

私の知人から、7月30日のニューヨークタイムズ第1面に「免疫療法の特集」が出ていると連絡があった。患者さんや医師へのインタビュー、免疫療法の歴史、科学的な作用機序など、かなり長文の特集であった。以前、このブログでも紹介した1890年代のコーリー博士の話も紹介されていた。日本では治療費が高いことで注目を集めているが、このような記事でしっかりと紹介しないと、知識ギャップが広がり、混乱を生むだけだ。

これに限らず、米国から新しい治療法が次々と生まれ、日本からはほとんど出てこない理由を再度まとめてみたい。私は、最大の理由はその評価制度と予算措置にあると思っている。決して、日本にアイデアがないわけではない。

最近伝わってきた例で言うと、的外れな評価のコメントがある。免疫療法と言っても、いろいろな免疫療法があるが、人の樹状細胞やリンパ球を利用した治療法に関して、マウスやその他の動物で安全性や有効性を検証するのが非現実的なことが多い。抗原を提示する細胞にある主要組織適合遺伝子複合体(MHC=major histocompatibility complex)(これを人の場合、ヒト白血球抗原HLA=Human Leucocyte Antigenと呼ぶ)、抗原を認識するリンパ球にある受容体が決定的に異なるからである。そして、繰り返すが、マウスと人では、リンパ球数も3桁違うし、清潔な環境で飼育されているマウスと汚い環境で育っている人間とは、免疫環境が全く異なると言っていい。また、人の免疫細胞をマウスに注入すると、人の免疫細胞は、マウスの細胞を敵と見なして攻撃する。

こんな常識も、免疫学の知識も、ゲノム多様性に関する知識さえ持ち合わせていない研究者が、免疫療法の研究費の審査を担当して、まともな審査ができるはずがない。特に、限られた分野での研究を対象とする研究を貴ぶ、日本の研究環境で育った若い研究者たちは、新しい世の中の動きについていけるはずがないのである。一般教養や国際的な動きを理解できていない人たちに評価させ、それで、日本から革新的なものが生まれると考えているセンスがおかしい。そして、評価者が無責任なコメントを寄せても、何ら責任を問われない制度は世界に類を見ない日本独自のガラパゴス文化を生んでいる。

そして、研究費の査定が、なおざりだ(ネットで調べると、“なおざり”の方が“おざなり”よりいい加減だそうなので、“なおざり“が適切だと思う)。どうせ削減されるに決まっていると水増し請求する研究者、限られた予算をできるだけ多くの研究者に配分するという理由で、必ずと言っていいほど数十%の削減をする査定側(最近は評価によって削減比率を変えているという改善があるが)。両岸をつなぐことができる橋を完成させるよりも、できるだけ多くの業者のカネをばら撒いて批判を避けたいという発想だ。こんな発想で、先端的で、世界トップを目指すような研究ができるはずがない。

そして、相変わらず、「エビデンス=人の臨床試験のデータの結果」と思っている、時代遅れの人たちがいる。そして、多くの人が数字を見ているだけで、内容を理解していない。統計学的な解析をして、P値が0.05あるいは0.01より小さくないと、エビデンスがないと頑なに主張する輩がいる。たとえば、A治療薬とB治療薬の5年生存率を比較すると仮定した場合、A群で50人1人が生存、B群で50人中5人が生存している場合、感覚的には差がありそうだが、統計学的には有意でない。しかし、A群で100人2人が生存、B群で100人中10人が生存している場合(単に数を倍にしただけ)、統計学的にはp値が0.05より小さくなり、有意な差と見なされる。人数を倍にすると、差が小さくとも、はっきりと検出されるからである(小さな差が意味があるかどうかは、また、別の問題だが)。臨床試験は仮説をもとにして、試験のサイズ(患者数)が決められるが、想定していたより差が小さいと「これはダメ」と烙印を押され、それで終わってしまう危険性があるので要注意だ。例示したケースでは、前者の場合、差があるのかどうかを検定するためのパワーがないことになる。期待を大きくしすぎて甘い目算を立てると、痛い目にあう。したがって、予算が足らないといって、試験規模を小さくすると、何の意味もない結果しか残らない。日本では、必要な経費を配慮せず、予算に合わせて試験サイズを決めたり、甘い見通して始めたために、無駄に終わるケースが少なくない。特に、ワクチン療法などの免疫療法は、一定期間を経た後に差が大きくなる傾向があるので、従来の統計学的解析を当てはめるべきかどうか考えねばならない。

また、科学的エビデンスとは、基礎研究も含めた幅広いエビデンスであり、これを元に、臨床試験の開始が妥当か、画期的なものが生まれる可能性を秘めているかどうかを評価し、新しい治療法が検証される。残念ながら、日本には、この段階で真っ当な評価をする制度がない。むしろ、十分な人材がいないと言ったほうが正しいかもしれない。審査できる人材を育てないままに、審査が続くと、日本の科学研究は崩壊する(すでに崩壊が始まっている)。