読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

17回目の6月1日

雑事

母が亡くなって17回目の命日を迎えた。私は母が19歳の時に生まれたので、母が亡くなった年齢に達するまで、あと2年だ。やはり親の亡くなった歳は精神的に一つの壁となる。いやでも、自分に残された歳月を考え込んでしまう。まだ、がんという病気に対する敵討ちはできていない。「がん」という病気と喧嘩すると誓った日から、17年も経ったというのに。

抗体医薬品、がんペプチドワクチン、分子標的治療薬と弾丸はたくさんそろえたが、それらの検証に利用する武器が揃わず、利用する兵員の態度ももどかしい。がんを一発で仕留めることができそうで、なかなか思うように行かない。1990年代、癌研究所や東京大学で研究室を構えていたときには、研究室内に緊張感が張り詰めていた。しかし、2010年前後やシカゴ大学の研究者を見ていても、本当に周りの人間が軽くなったような気がしてならない。私自身の厳しさ・緊張感が欠けているのかもしれないが?

「責任感」という言葉が、日本語の辞書から失われてしまったかと思うほどだ。「責任感」が軽いので、そこから派生する緊張感が欠如している。学校で、先生と生徒は、同列だというような間違った教育をしてきたつけが回ってきたのだ。教える者と教わる者が、同列であるはずがない。教える側には、知識・経験という財産があり、それを学ぶ者には教える側に対する敬意が必要だし、日本語の文化には敬語という概念がある。そこに緊張感が生まれるのだ。

また、「権利」には「責任」が伴うという常識さえ弁えていない人も多い。降って沸いた「権利」を当然顔のように思い、それに伴う「責任」を考えない輩が増えてきた。もちろん、他者にたいする感謝の気持ちも薄っぺらい。政治家に代表される大人の非常識な軽薄な行動が、日本という国全体から、日本人としての矜持を失わせているように思う。

次から次へとメディアで明らかにされる都知事の、せこい事例、みみっちい事例など、日本最大都道府県のトップとしてだけでなく、一人の日本人として恥ずかしくないのだろうか?彼を支持する声をあげている人もいるようだが、もっとボロボロになる前に身を引くべきではないかと思う。

「責任」という言葉に関係して、米国の動物園で起こった事件が物議を醸している。オハイオ州の動物園で3歳の子供が、柵をくぐり、壁から滑り落ちて、ゴリラのいるところに落下した。ゴリラが浅い水の中で、子供を引きずりまわすニュースを見たが、打ち所が悪いと死んでいたかもしれない乱暴な姿だ。このような状況下で、子供が危険と判断した動物園側がゴリラを射殺した。麻酔銃では効くまでに時間がかかり、意識が完全になくなるまでにさらに危険な状況になりかねないとの判断で、射殺に踏み切ったようだ。子供は怪我をしたが、大したことがなかったようである。

絶滅危惧種のゴリラの射殺に対して、動物園側の責任を問う声、子供を見守っていなかった親の責任、刑事責任を問う声が上がっている。特に親の責任を問う署名が40万人から集まっているというから驚きだ。もし、一歩間違って子供が亡くなったいたら、親には同情が集まり、動物園側が非難の的になっていただろう。人間とは勝手なものだ。どちらに転んでも、誰かを批難する性のようなものがあるのだろう。

そして、私なら、どうしていただろうかと考えてみた。答えはいたってシンプルだ。ニュースに流されていたような危険に子供が晒されていたなら、ゴリラから子供を取り返すために、自分も飛び降りでいたにちがいない。ゴリラと戦う前に、飛び降りて足を骨折するリスクは高い。しかし、それが、親として、危険が差し迫っている、愛する子供を守る「責任」だ。

f:id:ynakamurachicago:20160601235855j:plain