挑戦を許さない日本社会

日本に少し長く滞在しすぎたためか、時差ぼけが、いつもより格段に厳しい。午後11時に寝込んで、午前1-2時に目覚める日が続いている。こんな厳しい条件下で、昨夜は共同研究者の胸部外科医と夕食を共にした。彼とは、お互いに尊敬できる間柄だ(ただし、彼が私を尊敬しているという確証はない。私が勝手にそう思っているだけだ)。腫瘍外科だけでなく、肺移植もしているスーパー外科医だ。彼と医療や研究の話をするのは、シカゴに来てからの楽しみの一つだ。

彼が、周りは反対したが、リスクの高い患者の肺移植を試みて、うまくいったことを自慢げに話をしていたので、日本の神戸で起こった病院閉鎖に至る話をして、彼の感想を聞いてみた。もちろん、中立的な立場ではなく、日本の愚かなメディアや学会批判を交えての説明になたっが、彼の返事は極めてシンプルだった。

「ガイドラインというのは、普通の医者が実施するために必要な規約であり、先駆者的な医師は、リスクの高い患者さんを治すために、挑戦すべきだ。ガイドラインに合致しない患者さんは、死を待つしかないので、優秀な最先端医師はそれらの患者さんを治すために新しい試みをして当然だ」と何のよどみも無く答えた。「チャレンジングな病院は、全体的に見ると決して治療成績はよくない。それは高いリスクの患者さんを治療しているから当然だ。患者さんのリスクを考えて評価しないと、公平な評価とは言えない。」

それらの答えを聞いて、胸のつかえが無くなったように感じた。ガイドラインは一定の条件の患者さんに対して、安全に治療するためのものである。日本では、ガイドラインができると、その遵守を第一義的に考え、その枠を超えた患者さんは忘れ去られる。神戸の問題が巻き起こったときにも、ガイドラインを越えたリスクの高い患者さんを救おうと試みるにはどうすべきか、そんな議論は全くなかったように思う。拝金主義の医師は野放しだが、患者さんに希望を提供することを願って頑張っている医師には冷たい社会だ。

リスクの高い患者さんは、一般的には死が近い患者さんである。患者さんも家族も生きる可能性に賭け、リスクを覚悟で移植を受けたいと思っても、日本ではそれが許されないのか?治らない病気を治すために、リスクを冒す医師は無謀で身勝手なのか?生体肝移植の歴史を振り返ってみよ。健康な人間に傷をつけることはけしからんと大騒ぎした人たちがたくさんいた。しかし、自分の家族、特に、幼子を死の渕から救った親御さんたちのうれしそうな顔を思い浮かべても、批判の気持ちは揺るがないのか?元衆議院議長も、この恩恵に与ったのではないか?

神戸の病院が閉鎖になったと聞いた時、「日本は患者さんのために尽くしてきた、世界に誇る外科医を見殺しにした」と思った。昨夜の誇らしげな外科医の姿を見て、日本という国が、医療先進国になるのは難しいと痛感した。悲しい現実だ。

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