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予防的乳房切除は有用なのか、おぞましいのか?

2013年に、女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが、遺伝性乳癌遺伝子異常が陽性だったことを受け、予防的に乳房切除を受けたことで、一躍有名になったのが遺伝性乳癌だ。図らずも、日本の科学リテラシーの低さ、医療メディアのレベルの低さを露呈させた報道だった。今日の話題は、「New England Journal of Medicine」誌に報告された、遺伝子診断に基づく外科的乳房予防切除の有用性をまとめた論文についてだ。

実は、最初の乳房予防的切除に関する論文は1999年に報告されている。14年遅れの2013年になされた日本の報道の内容は、日本のメディアが如何にガラパゴス化しているのかを如実に物語っている。ただし、1999年のものは家族性乳癌の疑いが強い人に対するもので、遺伝子診断はされておらず、遺伝子診断に基づく予防的乳房切除の報告は2001年となる。それとで、干支で一回りの差だ。

今日は、まず、基本的知識として、遺伝性乳癌遺伝子BRCA1とBRCA2発見の歴史を振り返ってみる。

遺伝性乳癌の原因遺伝子の一つであるBRCA1遺伝子の発見は1994年にユタ大学のMark Skolnick教授のグループから報告された。筆頭著者はYoshio Miki(三木義男)先生で、現在、東京医科歯科大学の教授である。彼は、日本よりも、欧米での認知度の方がはるかに高い。ちなみに、三木先生は、私が1989年に癌研究所の部長として帰国した際に研究員として加わってくれた、中村研究室研究員の第1号のひとりであり、その後、私のつながりからユタ大学に留学した。結果的には、競争相手のSkolnick教授に、強力な助っ人を送り込んでしまったことになる。

さらにさかのぼること4年、1990年にMary-Claire King教授が、遺伝性乳癌遺伝子が第17染色体の長腕に存在していることを報告している。この染色体の部位を特定するために利用したDNAマーカーは、私が開発したものであり、私にとってはいろいろな意味で縁が深い疾患である。ちなみに、BRCA2遺伝子は、イギリスのグループから1995年に報告されており、両者とも、細胞内のDNA損傷を修復する機能が明らかにされている。

そして本題に戻るが、2010年に発表された最大規模の論文では、BRCA1とBRCA2のいずれかに遺伝子異常のあった1619名を、予防切除の有無で2群に分けて、平均3年間追跡した結果が報告されている。予防的乳房切除を受けた群247名では一人も乳癌が発症しなかったのに対して、予防的切除を受けなかった群1372名の内、98名(7.1%)が乳癌と診断されている。2011年にデンマークから報告されたデータでは予防切除群96名中3名(3.1%)対非予防切除群211名中16名(7.6%)(追跡期間不明)となっている。

BRCA1遺伝子に異常がある場合、50歳までに乳癌が発症するリスクは31%、60歳まででは49%、80歳だと67%となる。BRCA2遺伝子異常の場合には、50歳までの発症リスクは20%、60歳まででは35%とBRCA1より少し低いが、80歳では66%と同じレベルだ。これらのリスクを考慮して、予防的切除による乳癌発症回避をどのように捉えるかは、個人個人の問題であり、まずは、このように科学的に正確な数字を明らかにすることが重要だ。

かつて、家族性大腸腺腫症の発症前遺伝子診断について、記者が取材に来た。私には、全く質問せず、後日の放送で「大腸癌や乳癌に罹るなどと診断するのは恐ろしいことだ」と公共の電波で私を非難するようなコメントした。取材に来ていながら、診断の是非について、まともな議論をせず、背後から切り捨てる。自分の考えを主張するために、取材したというアリバイ作りをしたようだ。この類の人たちが、一般の人たちに歪んだ印象を植え付け、日本の医学の進歩を妨げるのだ。

癌に罹って苦しんだ人を間近で見た人と、それを見たことのない人では、自分が癌に罹るかもという不安のレベルはかなり異なる。感性のない記者は自分の主張を押し通すために、取材対象を利用する。売ることだけが目的の医療ジャーナリズムの患者さんに対する責任感の欠如が、「抗がん剤有害論」を拡散しているが、それも同類だ。

話を戻すが、実は、この乳房予防的切除は、遺伝性乳癌遺伝子が発見される前から、行われているのである。乳癌の家族歴が多く、乳癌に対して不安の高い人たちには、BRCA1、BRCA2に関係なく、予防的乳房切除が行われていたのである。予防的切除を受けた人の74%で癌にかかるかもというストレスが無くなり、あるいは、軽減したと報告されている。乳癌に罹るかもと恐れながら日々暮らすよりも、不安なく過ごし、人生の質を高く保ちたいと考える権利があってもいいと思う。

こんな議論を深めるために必要なことは、医学・医療に関する、専門家と一般人との知識ギャップを埋めていくことだ。

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