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挑戦力に欠ける日本の文化;可能性に賭けない・許さない日本人

医療(一般)

シカゴに来て3年4ヶ月近くが過ぎた。日米のバイオメディカル産業の差が生まれた原因をよく問われる。複数の要因があり、簡単に語れないが、最大の要因を挙げるとすると、「可能性に賭ける米国」と「リスクをとらない日本」だと思う。日本の役所や企業に話すと、必ずといって良いほど「まだ、先が見えませんから、もう少し待ちましょう」「可能性はわかりますが、とりあえす、小規模で始めてください」と言った返答だ。米国では「可能性に賭けてやってみましょう」という返答が少なくない。そして、可能性に賭ける場合には、国際的に競争できるだけの支援が提供される。また、可能性が完全に消滅しない限り、支援は続けられる。これには、責任ある評価体制が不可欠だが、日本はこのシステムに致命的な欠陥がある。

「可能性を求めない姿勢」は、治験に対する医師の考え方にも現れる。新しい薬剤の治験が始まっても、多くの医師は「効くか効かないか根拠がないので」と、消極的な姿勢を示す。治験に進むにためには、効く可能性を示す実験データ、動物試験での安全性の確認などの科学的な実証が求められる。科学的な根拠がまったくなければ、治験が始められないことを理解していない医師が多い。また、人での治験にたどり着いた薬剤の約5つにひとつは承認される。この時点では何万分の1の可能性ではなく、20%の確率なのだ。

何の治療法も残されていないがん患者さんやその家族に対して、マニュアルに沿って「緩和医療」を進めるだけで、自分の責任を果たしていると考えているようでは、日本の患者さんは救われない。この可能性に賭けない発想が、医療だけではなく、多くの分野での停滞を生んでいるのではないだろうか?

特に、日本で大御所と呼ばれてきた人たちと、米国のトップクラスの研究者を比較すると、発想の柔軟性という観点で大きな差があるように思う。たとえば、米国では、がんの免疫療法は批判に晒されながらも、長期間にわたってしっかりとした研究支援を受けてきた。免疫チェックポイント抗体療法だけでなく、キメラ抗原受容体(Chimeric Antigen Receptor; CAR)T細胞療法も目覚しい効果を示しているが、日本の研究支援体制では、中断していただろう。国立がん研究センターに革新的なものに挑戦する姿勢がかけていることが、日本の柔軟性の欠如を象徴している。

そして、新しい薬に対して、メディアも「効くか効かないか、わからない薬剤を利用して、患者を危険に晒すのか」と感情的な煽動で、日本の医療の発展を阻害してきた。安保法案に見る「すぐに戦争が始まり、徴兵制まで言及する」感情的な報道と根を同一にする発想だ。危険を煽って、問題の本質的な議論をできなくしている。それなら、どうして国を守るつもりなのか、対案を出せばいいのだ。そして、何回か触れたが、生体肝移植に見る最近の報道など、まさに、この発想の延長線上にある。生きたいと思う患者さんの願いと助けたいと思う家族がリスクを冒すのを、感情で動くメディアや既得権に胡坐をかいている学会が押さえ込むことが倫理に適うのかどうか考えて欲しい。あまりにも全体主義過ぎて、多種多様な価値観を押しつぶそうとしているのではなかろうか?

新薬といえば、「のう胞性線維症」という遺伝性の病気に関して、今週号の「New England Journal of Medicine」に新薬の効果が発表されていた。原因となる遺伝子CFTRが発見されてから約25年になる。日本人には少ないので、なじみがない病名だと思うが、肺や膵臓に粘液などが貯まって、呼吸障害や膵臓の異常を起こす、白人社会では最も頻度の高い遺伝性の病気である。ヨーロッパでは2000-3000人に一人、米国では3500人に一人の頻度で発生する。医学・医療の発展によって、1959年にはわずか6ヶ月であった平均生存期間が、2010年には37-40歳となっている。私が留学していた1980年代後半でも、20歳まで生存する患者は限られていたので、医療の進歩には目を見張るものがある。

挑戦しなければ、絶対に新しい成果は生まれない。治らない病気は仕方がないと見過ごすのか、治らない病気を治そうと挑戦するのか、この発想の差は大きい。挑戦には、リスクが伴うが、それを理解し、受け入れない限り、日本発の革新は生まれない。現状に満足するのか、患者さんの人生の質を高めるために挑戦するのか、この「のう胞性線維症」や「がんの免疫療法」の成果が、私の魂を揺さぶっている。

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