沖縄慰霊の日

昨日は70回目の沖縄慰霊の日であった。沖縄は青い海と燦々と照りつける太陽のイメージだが、私の心の中で最も鮮明に残っている記憶は、「ひめゆりの塔」である。そこに残されていたものを手記と呼ぶべきか、日記と呼ぶべきか、わからないが、涙なくして読むことができないものだった。「尊い犠牲」と言って済まされるようなものでは決してない。

 

沖縄戦では約20万人が亡くなられたが、われわれ日本人は沖縄の人たちの戦争中の犠牲とその後の米軍占領下での苦難の日々を決して忘れてはならない。二度と同じような悲惨な犠牲が起こしてはならないと固く誓うべきである。

 

と思いながらも、日本に帰国して1週間足らずの報道には違和感を覚えざるを得ない。安保法案を巡る議論を聞いていても、どうも本質的な議論がないように思う。このブログで再三再四触れているが、医学研究分野でのガイドラインは数年すれば、実情と会わない部分が少なからずでてくる。

 

メディアはガイドラインから少しでも逸脱していると、鬼の首でも取ったかのように研究者を吊し上げる。福島医大で手術時間や出血量をインフォームドコンセントなしで研究に利用していたと大騒ぎしていた新聞があった。これなど医学的な知識不足に加え、医療をよくするための研究の重要性など全く理解していないことを露呈するような報道だった。医師や研究者の瑕疵を(それが倫理的であろうがどうか関係なく)ハイエナのように追いかけている歪んだ精神から生まれた救いようのない記事だった。何が倫理的なのか自分で考える思考力を持ってほしいものだ。今回の法案でも、この法案成立で戦争をできる国になるというのも余りにも短絡的ではないのか。

 

また、今回の安保法案が「憲法違反」か「憲法に沿うのか」が争点となっているようだが、日本という国をどう守るのか、70年前の沖縄の悲劇を繰り返さないために、今何が必要なのかという最も大切な議論が見えてこない。辺野古は反対だが、普天間基地はどうするのかとの対案もなく騒ぎ続けていても全く将来の展望が見えないのと同じで、日本はどうあるべきかが全く論じられていない。

 

戦争が終わって70年経ち、日本を取り巻く環境は、全く異質なものとなっている。合憲か違憲かと、国や国民を守るためにどのような環境整備が必要かとは別次元の話であり、法的解釈だけを議論していても建設的ではないと思うのは、私だけなのだろうか?

 

日本国民の誰も戦争をしたいなどと思っていないはずだ。沖縄だけでなく、広島、長崎の原爆記念館に展示されたものを見れば、誰もが戦争の怖さを実感できる。しかし、何も手を打っていなければ、何が起こってもおかしくないのがこの世の常である。地震などでは万に一つの備えをすべきと強調しているにも関わらず、羊のようにおとなしくしていれば、誰も襲ってこないと信じることができるのは不思議なことである。シカゴ大学のキャンパスには、多くの警官が配備され、それが抑制的に機能して安全が確保されている。国民の安全を守るために、他国を牽制し、抑制するための仕組みが必要だと思う。

 

それにしても、民主党は国会の延長に反対して棄権したとニュースで放映されていたが、国会議員が国会での議論を回避していては、民主主義は成り立たないように思う。「法案が憲法に反しているから、議論必要なし、国会の延長に反対」では、あまりにも国民を馬鹿にしているようにしか思えない。安保法案に反対ならば、95日も延長されたのを機に、堂々と議論をして自民党政権を倒すべく国会で闘うのが筋ではないのか?

私が見た「沖縄慰霊の日」の報道も、安保法案とリンクさせて、この法案が再び沖縄のような犠牲を生むようなニュアンスで伝えていた。「国を守ることが右翼的な思想だ」と揶揄されるのは、戦後70年の平和ボケのような気がしてならない。戦争の犠牲を生まないための真っ当な議論を期待したい。

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