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東北大震災から4年

雑事

明日で、2011年3月11日東北大震災の日から4度目の記念日を迎える。この地震が起こった時、私は竹橋にあるKKRホテル東京の会議に参加していた。ビルが真二つに折れてしまうのではないかと思うほどの揺れがあり、窓から眺めると近隣のビルが大きく揺れているのがわかった。外に飛び出すと、恐怖で腰が抜けたようになった外国人が、両脇を抱えられながら、震えていた。

 

阪神淡路大震災は経験していないので、私にとっても人生で最も恐怖を感じた揺れであった。そして、この日は、東京でも春と呼ぶには程遠いほどの冷え込みだったので、東北地方の方々にとっては、さぞかし寒かっただろう。もちろん、この日のことやニュースで見た映像は鮮明に記憶されているが、5月初旬に訪れた南相馬市の姿は、もっと強烈な記憶としてインプットされている。

 

田んぼの中に大きな船が残っていることも衝撃的であったが、南相馬市立総合病院に残って奮闘されていた金沢院長や及川医師の姿には感動した。南相馬市には福島原発から20キロと30キロラインが横断しており、緊急避難準備区域に指定されていた。この範囲で対応可能な入院ベッド数は6に制限されていた。2万人以上がすでに地元に帰っているので、6ベッドでは当然対応しきれない。脳梗塞や心筋梗塞の場合、1時間以上かかる福島まで搬送していては、助かる命も助けられない。

 

当時、地域医療には直接関係しないが、医療イノベーション推進室に在籍していたので、東京に帰って、役所と掛け合った。原発の緊急事態に備えるといっても、病気の緊急事態を切り抜けなければ、避難どころではない。しかし、何もできなかった。むなしさ、口惜しさにいたたまれなかった。もちろん、家族、友人、家を失った被災者の人たちの悲しみに比べればわずかなものだが、この方たちのために何もできない無力感が日本を離れる第一歩となった。

 

そして、さらに感動を覚えたのが、産婦人科医の高橋亨平先生との出会いだ。南相馬市に残り、妊婦のために孤軍奮闘されていた。ご本人は、がんの抗がん剤治療のために、一週間に一回、福島まで治療のために通院されていたにもかかわらずだ。一昨年の一月に、天に召されるまで地域医療に貢献されていた。頭が下がる、医師の鑑、そんなありきたりの言葉しか浮かばない。

 

いろいろな出会いがあったが、もっとも心に残っているのが、避難所である体育館で暮らしていた被災民の方々の屈託のない笑顔である。五月とはいえ、東北の五月はまだ寒かった。二か月間近く、このような厳しい環境で耐えて過ごされたと思うと、励ましの言葉が浮かばなかった。体育館で呆然としていた自分が恥ずかしい。ダンボールで仕切られた二-三メートルの空間がこの方たちの仮の住居だ。プライバシーなど全く存在しない。こんな混乱の中で、秩序を保ち、黙々と耐えている、日本人、いや、東北の方々は本当に日本の誇りだと思った。

 

こんな印象を引きずり、その後、被災地の方々のために何かできないかと、私なりに奮闘したが、結局何もできなかった。日本人の一人として、悔しかったし、悲しかったし、辛かった。被災地の方々は、もっと辛かったはずだが、私は無力な自分が許せなかった。それが、心の奥に影となって澱んでいる。3月11日を迎えるたびに、心が痛む。

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