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大塚ホールディング・大塚明彦会長逝く

大塚ホールディングの大塚明彦会長がご逝去されたことをネットニュースで知った。最後にお会いしたのは、2008年5月1日に徳島で開催されたカンファレンスであった。大塚製薬や明彦氏との思い出は深いだけに寂しい気持ちでいっぱいだ。

 

私と大塚明彦氏との、最初の出会いは、1992年12月7日であった。当時、大塚製薬の診断事業部に在職しておられた申貞均氏に引き合わせていただいた。申さんが、私の元を訪ねてきたの、それより1年程度遡る。私が、家族性大腸腺腫症の原因遺伝子APCを報告してしばらくして、申さんと出会った。「APCの成果を読んで、これからは製薬企業でも、ゲノム研究が必要だと思う。是非、ゲノムのことを教えてほしい。」と語っておられた真摯な姿が脳裏に焼き付いている。

 

申さんと私の二人は意気投合して何度もミーティングを重ね、申さんは次第に私に感化され、大塚製薬に遺伝子・ゲノム研究の拠点を作りたいと強く願うようになった。そして、私に意図を告げることなく、明彦氏と私の夕食会をセットした。私は、申さんの意図を全く気付かず、食事の間、自由奔放に明彦氏に自分の考えを言ったように思う。明彦氏は、物静かに私の話を聞かれておられたが、質問のポイントは明確で、大塚グループを率いる自負と威圧感が伝わってきた。

 

食事が終わり、明彦氏が去られた後、申さんが「うまくいきそうです。ゲノム研究が始められそうです。ありがとうございます。」と私の手を握り締めてきた。この時点で、その日の食事会の意味をようやく悟った鈍感な私であった。明彦氏が私に対して面接評価をする場だったのだ。気の弱い私なので、意図に気づいていれば、緊張してうまく伝わらなかったのかもしれない。

 

私がこの日付を正確に記憶しているのは、翌日、申さんが当時在籍していた癌研究所生化学部に突然現れ、「社長(明彦氏)からの、40歳の誕生祝いです」とシャンパン6本入りの箱を届けてくれたのである。今なら、このようなものを受け取ってと顔を顰める人が多いかもしれないが、人間のつきあいにおおらかさがあった時代のことである。私にとって30歳代最後の日の、大塚明彦氏との運命的な初対面であった。

 

この後、申さんと私の二人三脚の共同研究が始まり、大塚製薬にゲノム研究を担う「GEN研究所」が発足した。申さんとは気が合って、仕事を忘れて、カラオケにもよく出かけたものだ。申さんの上司の家で、私がちゃんこ鍋を調理して、研究所の研究員全員にふるまったことも懐かしい思い出だ。日本でゲノム研究が認知されない中で、二人でよく頑張ったと思う。しかし、独立した研究所が発足した年の12月に、「申さんが頭が割れるように痛くなり、救急車で運ばれた」との知らせが舞い込んできた。状況を聞くと、くも膜下出血の可能性が高いと考え、不安が一気に膨らむ。案の定、入院時には意識はあったものの、次第に悪化し、帰らぬ人となった。

 

単なる共同研究のパートナーという関係ではなく、いろいろなことを語れる友人関係に発展していたので、申さんの死は私にとって大きなダメージとなった。朝鮮人として苦労してきた話、東大在学中に一晩で奨学金を使い果たし、1か月間ひもじい思いをした話など、時には目を潤ませ、時には目を細くして面白おかしく語った姿が、時々脳裏に蘇る。申さんの死がなければ、私はかなり違った人生を歩んでいたように思う。

 

申さんの告別式では弔辞を読む大役を仰せつかったが、涙で目が霞み、声が詰まって、まともに読み上げることができず、恥ずかしいと落ち込んでいた。しかし、式が終わった後、明彦氏が歩み寄り、「先生の弔辞にもらい泣きしてしまいましたよ」と目を潤ませながら手を握りしめてくれ、救われた気持ちになったことを鮮明に覚えている。

 

明彦氏とは、何度か食事を共にさせていただき、ポカリスエットを開発した際のエピソードなどを聞かせていただいた。ほどんどの社員が反対する中、それを押し切って開発を進めた話など、人生の先人として学ぶべきことが多かった。私が米国に移籍することを公表した2012年には、部下を私の元に送り、「米国に行った後、困ることがあれば支援させてください」とのメッセージを届けていただいた。思わず、涙がこぼれた。

 

当時は精神的に弱っていたので、その言葉が心底あり難く、帰国時に一度ご挨拶を申し上げたいと思いつつも、お会いする機会に恵まれず、今日、訃報を目にした。恩返しができないままに、二度とお会いすることができなくなり、残念で悲しい。そして、愛くるしい笑顔が本当になつかしい。心からご冥福をお祈りしたい。

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