読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

間違い論文による患者の不利益

医療(一般)

私の研究分野のひとつである薬理遺伝学の研究で起こった大きな問題だ。タモキシフェンという乳がん治療薬と、この薬を代謝しているCYP2D6と呼ばれている酵素の遺伝子多型に関する全く異なる結果が、医療現場に混乱をもたらした。不見識な研究者による報告が、結果として、患者さんに大きな不利益をもたらした可能性がある。まず、二つのキーワードを説明する。

 

「タモキシフェン」はエストロゲン(女性ホルモンのひとつ)の働きを妨げて、乳がん細胞が増殖するのを抑える薬剤である。大半の乳がん患者のがん細胞は、エストロゲンがこの受容体に結合することで増殖する。エストロゲンと受容体の関係は、「鍵と鍵穴のような関係」にあり、エストロゲンによって鍵が開けられる(細胞を増殖させる)。タモキシフェンは女性ホルモンと競って、受容体に結合するが、タモキシフェンが結合しても鍵を開ける力がない。したがって、がん細胞は増えない。

「CYP2D6」は肝臓で作られる酵素であり、タモキシフェン(T)をエンドキシフェン(E)に変化させる。TとEの働きを比べると、Eの方が女性ホルモンの働きを100倍程度強く妨害する。したがって、薬が患者さんの体内で働くためには、Eを効率よく作らねばならない。ところが、多くの人を調べると、このCPY2D6の遺伝子が変化していて(遺伝子多型)、Eを作る働きの低い人があることがわかってきた。

 

そこでわれわれを含め、多くの研究者がCYP2D6の遺伝子多型(酵素の働きのレベル)と乳がん患者の再発率に関係があるのかどうか調べた。CYP2D6の働きが低いと、Eの量が少なくなる(この点での意見の相違はほとんどない)ので、再発率は高くなるはずである。ところが、その結果が、「イエス」(関係する)と「ノー」(関係しない)に大きく分かれたのである。そして、2012年に大規模研究の成果が報告され、多くの医師・研究者が「ノー」グループが勝利したと考えた。

 

私は「イエス」グループに属していたので、この研究を含めて、「ノー」一派の研究に共通した欠陥がないか、調査してみた。その結果、研究方法の3大欠陥が共通して見つかった。(1)がん組織から取ったDNAを利用している(2)タモキシフェン以外の抗がん剤治療も受けている(3)遺伝子多型は多数みつかっているがそのうちの一部しか調べていない、である。がん細胞の遺伝子には多くの遺伝子異常が存在するので、患者さんの正常な細胞(この場合は肝臓の細胞)の遺伝子から変化しているため、間違った判定をしている。薬理遺伝学研究者にとっての常識的な注意が払われていない。

 

CYP2D6はタモキシフェンの働きにだけ関係しているので、他の抗がん剤を投与されると、それらの薬剤の影響もあり、タモキシフェンへの影響を評価するにはふさわしくない。これも常識的な話である。(3)は不十分な解析であるので、当然ながらCYP2D6の働きをまともに評価できていない。どれも薬理遺伝学の専門家にとっては常識であるが、多くの研究者にこれらの常識が備わっていないことが明らかとなった。

 

しかし、この間違った論文のデータが大きく取り上げられたため、この間違った結果を否定するのは大変である。大規模研究であったこと、米国立がん研究所の雑誌に発表されたことにより、この結果を信じている研究者・医師が依然として多数いる。権威ある雑誌に発表されたことが必ずしも正しくないことは、STAP論文を通して、多くの日本人が知るところである。STAP論文にあったようなねつ造はないものの、研究者が原理・手技を十分に理解しないままに進めた結果である。

 

論文の不正や間違いは、個人、時としては、国の信用を傷つけるが、大半の患者さんは傷つけていない。しかし、このCYP2D6の相対立した結果は、乳がんの治療に大きな影響を与えた。副作用がタモキシフェンより強く、高価であった、別の薬剤の方が優れていることが喧伝され、そちらが優先して利用されるようになった。CYP2D6の働きが十分な患者さん(遺伝子が正常型の患者さん)にはタモキシフェンは、効果も優れており、副作用も少なく、安価であると考えられたが?

不毛な論争している間にこの別の薬剤も特許切れとなり、薬剤価格にこれまでのような大きな違いはなくなった。この間、患者や国が負担した薬剤費は膨大である。結果として、この間違った結果は、高価な薬の販売に大きな貢献をしたことになる。安くていい薬を選んで利用していくことは、治療効果や医療費の観点から大切であり、反省材料としてほしいものだ。

腹腔鏡手術の例で分かるように、立派な道具があっても、使い方を知らないと、とんでもない結果を引き起こす。研究も同じで、意味のない患者試料で、不十分な解析を行っても、医療の進展に寄与するどころか、医療の進展を妨げ、患者の不利益につながりかねない。

f:id:ynakamurachicago:20141120034850j:plain