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中村研究室・最後の同窓会

雑事

今、成田エクスプレスで空港に向かっているなかでこれを書いている。9月25日―27日に開催された第73回日本癌学会と私の癌研究所・東京大学の研究室の同窓会に参加しての帰りである(米国に行くのではなく、帰るというのは一抹の寂しさはある)。1990年代には、癌学会での発表は随分とメディアの注目を集めて、メディアで多くの成果が報道された。しかし、最近では癌学会が話題となることもあまりなくなった。がんが日本の死因の第1位であり、日本人の3人に一人ががんで死亡するという厳然たる事実、そして、高齢化に伴ってさらに増え続けるのか確実な中で、がん研究がシカトされているような状況に、複雑な心境を覚える。

 

日本から画期的な新薬が生みだされていないこと、基礎研究の成果がなかなか社会に還元されないこと、再生医療や脳科学などの分野に若手研究者が流れていることなど複雑な要因があると思う。その結果として、際立った成果がなく、メディアにも注目されなくなり、若手研究者を引き付けなくなったのだろう。このままでは、負のスパイラル状況となり、さらなる悪循環につながりかねない。しかし、これは国として大変なことである。もっと大変なことは、この危機的状況さえ認識されていないこと自体である。目に前に大きな崖があるにもかかわらず、のんびり歩み続けているような感じだ。日本医療健康開発機構が3年前と同じ轍を踏まないことを切望したい。

 

そして、最終日の夜は熱海で同窓会を開催した。日本に帰国した1989年を起点に、1994年(東大教授に就任)、1999年、2004年(紫綬褒章受章)、2009年、2014年と5年ごとに開催してきた。今回が最後の中村研究室同窓会であり、100人を超える人が集まってくれた。感謝の一言しかない。最近の会では、教授になった連中が「いかに私が理不尽に厳しかったのか」を面白おかしく語ることが恒例となっている。しかし、彼らには、世界と競争することがどれだけ大変なことなのか、そして、自分のためでなく、患者さんのために頑張るのが研究だという精神を伝えることができたと思っている。

 

シカゴ大学の秘書さんも参加していて、「こんな話を知っていたら、秘書には応募していなかったと思います。」と言われてしまった。しかし、単に理不尽に厳しいだけでは、こんなにたくさん集まってくれなかったであろうこともわかってもらえていると願っている。私の研究室出身の研究者数は、250人は超えていると思う(正確なデータを収集中)。その中で、大学の教授や公的機関の研究室の長をしている人は、30人を超えた。これを逆に考えると私は恵まれていたと思う。

 

将来、教授に昇進できる能力を持った人をたくさん従えていたのだから、研究室から成果が自然に出たのだと思う。私のしたことなど、叱咤激励だけかもしてない。たぶん、叱咤が9で激励は1だけだったように思う。部下だった人たちにアンケートすると、もっと厳しい数字が上がってくるかもしれない。怖くてアンケートなどできないが。しかし、同窓生たちがお互い協力しあって、研究をしていると聞くと嬉しくもある。「厳しい」釜の飯を食べて、それを乗り越えたものが自然に連帯意識を持つようになったのではないかと考えている。是非、今後とも連携して頑張って欲しい。

 

日本に帰国後頑張ってきたが、一人の人間ができることなどたかだかしれたものだと痛感している。しかし、自分と同じ志を持つ人間を10人育て、彼(女)らが、また、10人ずつ育てれば、100人の同士が生まれる。この医療を変えたいという強い志を持ったものが集まれば、日本を変えることができるかもしれない。私が生きてその日を見ることができるかどうかわからないが、それを願ってやまない。

 

最後に、同窓会の幹事を務めてくれた松田浩一准教授の労をねぎらうと共に、彼の計算し尽された、笑いを誘ったジョークを紹介して締めくくりたい。スライドに映った「産経新聞の記事」を{朝日新聞の記事}と紹介した。「朝日?????!!!!」と私の血圧は50くらい跳ね上がった。あわてて修正したが、もちろん、みんなから笑いが起きた。座の締めくくりでは「医は仁術」を「いはにんじゅつ」と呼んで大爆笑を誘った。本人は「場を和ますために仕組んだ」と取り繕っていたが、本当なら、なかなか大した大物だ。灘高校、東京大学出身の彼がこんな間違いをするはずがないだろうと考えたいところだが、私は99:1で信じていない。

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