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終戦記念日に思うこと

雑事

69回目の終戦記念日を迎えた。私の友人の一人であるジョンス・ホプキンス大学のアンディ・ファインバーグ教授は私の誕生日12月8日になると必ずメールを送ってくれる。私は彼の誕生日、8月15日に忘れずに彼の誕生日を祝うメッセージを送る(今日もすでに送った)。太平洋戦争が始まった日と終戦を迎えた日、何がきっかけで誕生日のことを話したのかは記憶していないが、そんな交流が始まって20年ほど経つ。

 

還暦を過ぎた私でさえ、終戦後何年もたってから生まれたのであるから、戦争の記憶が日本の中ではは風化して消え去りそうでもおかしくはない。しかし、周辺諸国は当然のこと、日本にとっても、絶対に繰り返してはならない歴史であることを、ちゃんと認識しておく必要がある。

 

かといって、非武装中立論というきれいごとが通用するとも思えない。集団的自衛権の問題では、世界の警察官を自認していた米国が次第に内向きになっているという現実がある。シカゴの危険な地域を丸腰で歩いても、丸腰の人間は絶対襲われないから大丈夫だと言えば、常識を疑われる。現に今日の午前0時30分ごろに、大学キャンパス内をジョギングしていた人が襲われて、携帯を盗まれるという事件があった。常に注意喚起を受けているわれわれには、信じがたい時間でのジョギングである。何の根拠もなく、自分は絶対に安全だと考えるのは、あまりにも非現実的である。国家間でも、今、世界の情勢を見渡して、日本が丸腰で安全が保たれるとは、とても思えない。

 

エボラ感染症に関するコメントにも書いたが、最悪の事態を想定して、いかに国を守るのかという危機管理が必要である。かといって、単独で国を守り切れるかと言えば、国際情勢に照らせば、どう考えてもそれは難しい。日本が日本国民とその領土を守るためには、米国を中心とした国際社会との連携が不可欠である。米国には日本を守るために血を流す義務があるが、日本はどんな状況下でも血は流せないと言って、信頼関係が築けるはずがない。「君は私が困っているときにはお金を貸す義務があるが、私は君が困っても1円でも貸したくない」と言われた場合、こんな人が友人であって欲しいはずがない。世界中で紛争が勃発している中、身近では起こってほしくないと願っていても、願いが確実に叶えられる保証などどこにもない。起こった時のリスクに備えるのが、国の指導者の責任だと思う。

 

「ピストル強盗に襲われた時には、絶対に逆らわずに相手の要求するものを与えるように」と、大学から常に言われている。逃げれば、弾丸という飛び道具が飛んでくる。「襲われないように隙を見せない」、こんな当たり前のことを言っても、右翼と呼ばれそうな社会は、どこか歪んでいるのではないのだろうか?それとも、私の考えは本当に右に偏っているのだろうか?

 

「戦争で血は流さない」これが未来永劫に維持できればそれに越したことはない。特攻隊として国のために命を捧げた人たちもそう願っていると思う。しかし、世界中で起きている紛争で、流血が絶え間なく起こっている現実から学び、備えなければ、多くの無抵抗な人の血が流されるリスクの方が高くなるのではなかろうか?

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