教育的指導とパワハラの狭間

昨日も産経新聞の記事を材料にしたが、今日も“「小学生みたいな文章書くな」「係長以下だ」 自殺部下にパワハラ、福島県警捜査2課長を処分”を読んで他人事とは思えず、取り上げることにした。(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140626/trd14062618020011-n1.htm) 

記事には“「国語を習ってきたのか」「小学生みたいな文書を作るな」「おまえは係長以下だ」と言うパワハラをした。”とあった。私も部下が提出してきた英文論文を手直しする際に、「英語を習ってきたのか」「君の文章は中学生レベルに至っていない」「同じような間違いを繰り返し、学習能力に欠ける」「支離滅裂で何を言わんとしているのかよくわからん」などの言葉を頻発する。これでは私もパワハラだ。

しかし、これらの発言を若手指導係の外科医の発言として置き換えると「血管や神経がどこを通っているのか解剖学をちゃんと学んできたのか」「この手術報告書は記録として耐えうるのか。小学生の作文ではないぞ」「君の技術は研修医レベルだ」となる。皆さんは、この先輩外科医の叱責は言いすぎだと思われるでしょうか?人の命を預かる外科医が、解剖学を理解せずに血管や神経を傷つけ、手術の経過もちゃんと記録できず、手術の技量が下手なままでは、たまったものではない。腕の立つ外科医を育てるため、厳しく指導して当然だ。

パワハラ(あるいはセクハラ)の問題は、単に言葉の問題ではなく、本質は両者の人間関係の有り方の問題だと思う。同じ言葉を発しても、人間関係によって叱咤激励と受け止められることもあるし、いじめと受け止められることもあるのではないだろうか?自殺された警察官には本当にお気の毒とは思うが、再発を防ぐには、表面的な言葉の問題だけでなく、もっと本質的な人間関係に踏み込まなければならないと考える。

もし、これらの発言だけをもってしてパワハラと批難されるのであれば、私など「パワハラ」という言葉に埋もれてしまいそうだ。また、政治家の発言もそうだが、その背景や前後の文脈を無視して、切り取った発言の一部を「鬼の首を取った」かのように非難するような報道では、逆に自由な発言を封じ込め、社会全体が萎縮するだけなのではなかろうか?

しかし、私がすべての部下と良好な信頼関係を築けたわけではなく、少なからず、恨みを買っているようだ。最近、元の部下が「廊下で立たされて、許してもらえなかった。あれはパワハラだった。」と非難していると耳にした。彼とは人間関係がうまく構築できていなかったのだろうが、十年以上も経てからする話でもなかろう。ただし、「私が廊下に立っていろ」と指示をしたわけではない。誰かに私に謝るようにと言われ、自分で勝手に廊下に立っていたのである。嘘をついてサボったことが明らかになったため、研究室を辞めるように命じたからだ。研究を軽んじる人間がいては、他の研究者に対して悪影響を与えるので、所属長としては厳しく対応するのは当然のことだ。嘘を言って患者の診察をサボれば、病院では解雇されても文句は言えない。

私は、人を育てるには、相手を思いやる優しさが不可欠だと思うが、「優しさ=甘さ」ではない。人を指導するには、時に応じて厳しく対応することも、本当に相手を思いやる優しさだ。一生懸命努力している人と、隙あらばサボろうとしている人を同列に扱えば、まじめに努力している人がやる気をなくしてしまいかねない。Equality(平等)に並べるよりも、努力をEquity(公平)に評価することの方が重要だと私は思う。厳しい言動で指導する際には、その相手だけでなく、周りにいる部下も感ずるところがあるはずだ。しかし、当然ながら、厳しさの中に相手を思いやる優しさを伝えるのは、容易ではない。日々努力を続けているが、受けてきた教育が異なるためか、だんだんと私の思いとそれを受け止める若い人たちの精神構造のギャップが大きくなってきたように感ずる。私の次世代の指導者に頑張ってもらいたいものです。

(満月に照らされるミシガン湖)

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